昭和41年10月13日 朝の御理解
                          末永静行(№41-114-B-1)



神の綱が切れたと言うが、神からは切らぬ、氏子から切るなと仰る、神の綱が切れた、神からはきらぬ、氏子から切るな、いろんなお願い事をさせてもらう、どうしてもおかげにならん、もういよいよ神も仏も見放されたかと言うような事を申します。そう言うように思うこと事態が神の綱を自分からきるようなものです、ですから、どうでも一つ元気な心で、もう私はおかげを受けきりゃめ、そういうその思う心が神の綱を切るのですから、そういような弱い心をださずに、いよいよそこんところを修行と思うて辛抱し抜いて行かなければならん、これがこの御理解の初心の者に下さる御理解だと私は思うですね。
だから、その御理解が今度は段々信心を進めて参りますと、信心のなんたるかという事を分からせてもらい、いわゆる、信心とは本心の玉を磨くものぞや、信心とは、言うなら、改まりが第一ぞと仰るようなところが本当に分かって来る、おかげという事じゃない、ね、ですから、只今私は申しますところにやはり氏子から切るな、神からは切らぬと仰るのですから、そういうようなことに、例えばおかげをおかげとおかげを目指させて頂いて、お願いしてもおかげを頂ききらん、私ごたっとはもうおかげを頂ききらん、もう私はつまらん、もう神からも仏からも見放されたと言うような考え方ではおかげにならん、そこんところを辛抱しなければならない、ね、そこんところをこれはまだ私の信心が足らぬからだと、一心に信心を進めていけばそこからと仰る、そこからおかげが受けられる、ね、だから、そこんところを大事にして行かなければならん、もう私はつまらん、そう思う心が神の綱を自分から切ったようなことになるのです。ね、神様は絶対見捨てりゃせんと仰る。
昨日ですね、ある方がお参りされましてですね、此の方はもう本当に私、ちょうど言おうと思うんですね、もう、もう本当に自分のめぐりの深さにへきへきしておられるですね、信心がなかなか出来ておられるんです、そげん、先生、私はもう改まるちいう事がもう出来んとじゃろうかというてからもう寝られんしてからいわれるんですよね。それはもうその改まるということはそれだ信心に取り組んであるんですよ。
そしたら、私、神様からですね、「見捨ても見捨てん」と言う言葉を頂いた。その見捨てんというのですね、どういう意味であったか知らんけれども、もう、本当にもうどうにもこうにも仕方のない氏子だなという響きだったですね、ね、それでも神様は見捨てんという響きと両方合わせ感じるんです。どう言う意味か、私はその見捨てるという事をミスという事は私は、あの、失敗をするという事を申しますでしょう、ミスがあったと、そう言う意味が非常に強い中に見捨てると言うゴロからです、いわゆる、神からは切らぬと仰るそう言う響きを感じたんです。
もうこのことなんかはもう、私、信心を一段深く神様は言っておられる、もう先生、私はもう駄目ですって、もう、私は本当にまた先生失敗しましたと、これはここに取り組まにゃんと思いながらまた失敗したと言う、そう言う、その、本当にそのお届けをされるのにですね、私も自分の身につまされてからどうだ、私自身もそうですから、本当になかなか改まるという事は難しいなあと、自分でへきへキスぐらいな感じなのでございますから、もう本当に同情愛哀れと言うか、本当に難しいもんね、本気で改まるという事は難しいもんね、けれども、それを出来んからと言うて、ならほっぱらかしたらもういよいよつまらんのだから、またもとのところに逆戻りしなければならんのだから、さぁーそこんところを一つ頑張るとばい、明日は十三日会、せめて明日一日だけでも神様の願いに応えたたまつる、明日一日だけも一つ失敗せんで、ミスを作らんで済むようなおかげを頂かれないというて話したことでした、ね。
ですから、その、頂く人の信心の程度に応じてですね、神の綱が切れたと言うが、神からは切らぬ、氏子からは切るなと仰る、もう、私共はとうとうおかげを受けきらんってと言うような弱い心を出さずに、さぁーそこんところをもう一つ頂かせて頂いたら、縋らせて頂くというと言う、そこの一にも押し、二にも押しといったような、その、信心をです、これまで私の信心が足りんからと一段と信心を進めていくところ、そこからおかげを受け、そこからおかげを受けられると言うおかげを受けなければならん。これは、今私がいうそのお言葉に現れておるところの事だとこう思う。
私、これからみんなに聞いてもらうのは、今、申しますように、いよいよ自分の信心というものを段々進めてまいりますね、自分の心の中にも何がなしかの信心の光と言うものが頂けてくるようになるのです、自分の信心の光が求められてくには、自分が覚えておる事も、ね、自分の心の中が満足散らかっておる事も気がつかなかったです、なぜって、心の中が暗いから、ね、暗すぎるから、どこに垢があろうが濁りがあろうが自分に気がつかなかったんだけれども、段々信心を進めていくうちにです、ね、本当に信心の光が自分の心の中に少しばっかりいただけてくる、光が射してくる、その光に光りだされた事で見たら、今、自分にこう言う垢があった、こう言ういろうた心があった、本当に恥ずかしいことが自分にはこう言う汚い心まであったと言うようなものが自分で分かって来る、それを、まして言葉から言うと、めぐりの自覚という事だと私は思う、なんと、私はめぐり深い私だなと、いや、私だけじゃないな、私の一家にこう言うめぐりがあったんだなと言うような事が分かって来る、めぐりと言うのは自分の心の中に信心の光がともわなければ分からんのです本当は。
あんたのところはめぐりが深い、ね、と例えば見よくだけではです、難儀が続いておるから、ははーその難儀の元がめぐりだろうと言うよう事は分かるけれども、はっきり自分の心の中にこう言ううちにはめぐりがあるんだと言うような事は分からない、そこは椛目で信心の稽古をいよいよ深めて行こうと、いよいよ広めて行こうと言う願いをもって信心の稽古をしおる人でなからなければ分からん、そして、それから、その自分のめぐりに取り組んで精進する、ところが申しますように、その、そう言うめぐりがあるとはっきり見つけたんだけれど、ハッキリしたんだけれど、それで、それにまた失敗をする、また失敗をする。
この人は非常に賭け事が好きなんです、私が昨日、まあ、具体的に申しますとですね、ですから、もうこれだけはと自分で思ってるんです。その人はですね、もう親もそれでおかげを落としてあるんです、ね、もうこれだけはなければなさらんぞと親の失敗を自分の一切だけしっとるもんですから、そう慎んでおるんだけれども、さぁーいよいよその場にちょっとめぐむとですね、もう、なにもですね、忘れてしまうそうですね、こうなりゃあげなんめぐりになる、この事になる、そう言う事を忘れてしもうてから、始めてから、そして、後から負けるなら負けてから初めてですね、あぁーまた失敗したと気がつく。もう本当にめぐりはね、やはり働きを感じますよ。本当にこの辺になってまいりますと、めぐりの自覚に立ち、その深刻さを本当に感じますですね。
また失敗した、あれだけ神様にお誓いをさせて頂きながら、これだけはと思いながら、また失敗したという訳なんです、先生、もう私はこればっかりもう駄目っちいって、その涙ながらに言われる、ね、けれども、それを思ったんじゃ親もおかげを頂ききらなかった、もうあなたもおかげを頂きらんという事になると代わりに子供もそのためにおかげを頂けんという事になるよと、だから、もうあんたが苦しゅうてもあなたの時代に信心を頂いて、あなたがおかげを頂いて行かなければ誰が頂くかと、さぁー元気をだして一つ頑張りなさい、明日は十三日じゃ、ね、せめてその十三日の神様の願いが成就する日とさえしとるのだから、ね、十三日だけは一つ頑張らせてもらおう、そして、頑張りぬかせて頂くことの楽しみやら喜びを感じさせて頂こうとこう、まあ、少し元気が出て、明日は十三日会のおかげを頂きたいと言うて帰られたんですけれど、本当に人事じゃないと言う感じが致しましたですね。
あれは、蕪村という人の句の中にこんな句がございましたですね、「荒れさを掛け散らしてやいきのばか」かなんかですかね、ね、荒熊の掛け散らしてという文句でしたかね、そんな句がありまたように、「荒熊の掛け散らしてやささの雪」、まあ、山越えなんかをしている人が、ね、ちょうど、こう、くまごされた茂樹の中に雪が一杯積もってるわけなんです、ところがその、ははぁー熊がでたんだなと、思うようにですね、熊が歩いてきたところだけ、ささがもう雪が落ちるという訳なんです、そう言う状況を句にした、いわゆる、の句だと思うんすけれども、これは私が感じます。
例えば今日の御理解から、まあ、頂きゃ分かるいうならばです、ね、その雪なら雪という難儀をかぶっていない時にはです、いくら荒熊が掛け散らしても分からないのです、そうでしょうが、ね、ささの中を熊がいくら歩いておってもです、分からない、熊という事を一つ銘じると思うたらいいです。どんなにめぐりがです、いわば、自分の周辺に掛け散らす、その為に難儀しておってもです、その、めぐりの自覚と言うか、その、いきなり雪が降っていなかったらです、いわば、熊が掛け散らしたという事さえ分からないのです、私共が信心がないとき、信心が浅い時にはです、めぐりがみんな難儀をしておるという、その、めぐりの為に自分がいちいち(       )、めぐりのためにいつも難儀がある、いうなら、難儀が重なっておるということすら分からないという事である、ね、ですから、いわば、ささの雪が落ちてしもうた、ね、はっきりそこにめぐりの自覚がでけた、そして、そのめぐりにしてやられたからといてそれを難儀と思うてはならんって、それは自分の信心が進んだからそれが分かった、言うならばお粗末もご無礼もです、なら、不信心の間はこんぐらいなこつは当たり前のごと思うておった、ね、その、当たり前な事が、当たり前ではない事が分かってきた、こう言うお粗末、こう言うご無礼、いよいよ神様の心に叶わないこう言うような事がと言うふうに分かってきたという事は自分の心の中にめぐりの自覚やら信心の深さやらが分かってきた、信心の光が自分の心の中に射してきたからそう言うお粗末ご無礼自分でも分かってくるようになったと言うのですから、言うならば、お礼を申し上げねばならん、こういう事がお粗末であるご無礼であることが今まで分からなかったんだもの、それが分かるようになった、と言うてそれがです、繰り返し繰り返し何回も失敗しておってもです、へきへきするようにあってもです、何かの機会に、せめて今日一日はと、言うような願いのもとにそのめぐりに本気で取り組ませて頂いて、神様にがっかりさせるような悲しませるようなめぐりはもうこれ以上は積まんぞと言うような精進をさせて頂くことによってです、めぐりが影をひそめるという事なんです、だから、その事に精進をするという事がこう言うおかげが受けられるんだと言うおかげを体験しなければいけない。
神の綱が切れたと言うが、と言う事はです、もう段々信心を進めさせて頂いて、そこに自分のめぐりの深さを分からせて頂いて、また、失敗をしたと言ったような時にです、もう自分はつまらんというような考え方、ね、と言うものに対して、めぐりは積まらんという事は、積まり切るけれども、そうような事が分かるようになった私と言うものは神にお礼を申し上げる気持ちにならなきゃ行かん、ですから、逆転してくるですね、おかげが、いわば、運命と言うものでも、そこから、いわゆる、運命が変わってくるです、もうめぐりを積まらんと言う心、いや、自分はこういう事が分かったという事だけでも有り難い、出来ないけれど、これが分かっただけでも有り難い、ね、そしてせめてという、いわゆる、気持ち、そこんところに取り組んだり、精進がでけていくところに、いよいよ、運命が有り難いほうへ有り難いほうへ変わっていく、そこに、いわゆる、信心を深めて行く者の有り難さというものを感じるのです。
今日は十三日会でもございますので、一つお互い、自分の心に手をおいてみてです、自分の場合でも信心が分かってきておるんだなと、これはご無礼であることが、これはお粗末である事が、こういう事ではおかげが受けられないという事が分かってきたと言うだけでも有り難いと気付かせて頂いて、それに、例えば日頃失敗、また失敗しておっても、今日だけは一つ失敗せんように本気で取り組ませて頂くところの信心を頂かせてもろうて、ね、それに、そう精進したり、そこんところのおかげを頂いて行くことがこう言うおかげを受けられるんだという体験をです、いよいよ大きくしていく事によって楽しみが倍化してくる、有り難さが、喜びが大きくなってくる、そこから、私は本当の尊い信心が出来て来るようになると思うんですね。
                    どうぞ。